芸術的な生き方を考える

芸術家・村上隆の言葉に下記のようなものがある。
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“僕らはいつも最新の物に惹かれる。
それは僕らが、未来を知りたいからだ。
未来の形が少しでも見えたとき、
僕らは心を動かされてしまう。
そういう物を僕らは芸術と呼んでいる。”


僕らが、最新の曲や、日々のフラッシュニュース、
ツイッターのフィード、そういう物に釘付けなのは、
少しでも未来を覗きたいという本能的な欲求からだ。
スマホの画面上に、数m先の未来が表示されている。


また、恐らく誰でも、
生まれた意味や、愛の意味、
失恋の意味、労働の意味、
そういう事を考える。

特に足下のような不確かな状況ではそうだ。

これらも、パラフレーズすれば、
僕らが未来を憂いているという事だろう。

今後どんな人生が待っているか、
愛を見つけられるのか、
待ち人は来るのか、
働いた先に何があるのか。

そういう事が気になって夜眠れなくなる。
いつだって未来が見たくてしょうがない。


これら未来は、実は過去にも眠っている。
菊池成孔の言葉を下記に載せる。

“音楽は普通、過去に制作されて現在聴く。
なので、誰もが時間の流れを一方向に考えたがる。
しかし、あらゆる音楽の流れの中には、
未来から循環的に逆行して届くメッセージが含まれている。
初めて聴いた曲であれば、それが千年前の曲であろうと、
未来からその曲が少しずつ流れてくるし、
何百回、何千回聴いた曲でも、
未来からの流れは必ず含有されている。”

(ソース)
https://www.youtube.com/watch?v=UEloQm_RK5c


何度も聴いた古い曲でも、
それが毎回新しい感情や喜びをもたらす限り、
その作品には未来が含まれている。

ビートルズのラバーソウル、
近所の教会で見るフレスコ画、
辻仁成の海峡の光、
ソフィアコッポラの Lost in Translation。

名作と呼ばれる物には、常に学びや刺激がある。
そこに人は惹かれ、いつまでも語り継ぐ。

未来は全方向に見つける事が出来る。

さて、ここで少し飛躍して、
これらのアイデアを、僕らの生活に応用して、
芸術的に生きる、という事を語れるだろうか。


村上の定義を拝借すれば、
人に未来を見せる物が芸術と呼ばれる。

そういう性向を持った人間はいるだろうか。


卑近な例で行こう。会社の人間。

いつも同じ自慢話をする上司は嫌だが、
常に挑戦して道を切り開く先輩や同僚には惹かれる。
彼らは例外なく社内外でチヤホヤされる。

言葉に学びと少しの未来が含まれているからだ。

また、赤ん坊はどうだろう。
子供は、そこにある全てを吸収する。
希望と未来に満ち溢れている。


では、どうすれば、
芸術的に言葉を話し続ける事が出来るか。

新しい閃きを与え、未来を提示するには、
恐らく、常に新しい自分である必要がある。

菊池成孔も、同じ音源の中で、
“常にフレッシュでいる事、それが福音の第一番だ。
と語っている。


最近、僕の心に強く残った会話は、
ある60代のクリスチャンとのものだった。
白髪で痩せた、初老のイギリス人。

どういう文脈かは割愛するが、
30年以上、敬虔なキリスト教徒である人間が、
何かを信じる事の難しさについて語ってくれた。
キリスト教徒でもない、若い僕に、
何かへの信心を持ち続ける事の困難さを静かに話した。

オチのある話ではなかったが、僕は強く心を打たれた。

同じ聖書を何百回と読み、その中に未来を見ながら、
思考を繰り返してきた人間の言葉だと分かった。

そして、上から何かを説くのではなく、
フラットで、フレッシュな語り口だった。

その言葉はオープンで、僕の意見にも開かれていた。
僕からでさえ、何かを学びたいという空気があった。
残念ながら、僕は何も語り出す事が出来なかった。


芸術的に生き、
アーティスティックに言葉を放つという事は、
必ずしも小説を書いたり、作曲をする事ではない。

開かれた心や姿勢を持ち、
新旧の事物に積極的に取り組み続ける。

その過程が、人間の精神を新鮮に保ち、
その言葉や生き様に、少しの未来、芸術性を持たせる。


常に自分の知らない自分であること。

それは周囲の人間の為だけでなく、
自分を肯定して生きていく事にも繋がるかもしれない。
数日前のサンパウロの夕陽。こんな色ある?

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