生産性の罠

効率よく、コスパよく、賢く生きることへのプレッシャーの強い世の中だと思う。

GDPという概念がある。グロス・ドメスティック・プロダクト、国内総生産とも呼ばれる。一定期間内にある国で生産された付加価値の合計で、社会や企業体はこの付加価値をいかに上げるかを競い、個人はその生産の重要な基盤として活動している。

このGDPで日本は世界第三位!そして世界を席巻した効率改善の思想、トヨタ生産方式を産んだ国でもある。一位と二位を張るアメリカや中国の資源、そして人的資本と比べた時、1億人と少しで対等に張り合う日本は、効率を語らせたら実質一位じゃないだろうか。


さて個人の一生というのは、この生産性の観点で語れるか。私たちのかぎりある体温は生産を動かすための熱でしかないだろうか。

コーヒーの湯が沸くのを眺めている。ペンを取って思ったことを書き出してみる。見返りを求めず人に優しくある。

まだすこし寒いが海辺まで足を伸ばす。さしたる用事はないが誰かに電話してみる。話すことよりも多く聞くようにする。

いつもと違う道で家に帰る。このさきどうなるか分からない相手に本気で向き合ってみる。自分でわからないことは素直に聞く。

こういうひとつひとつは非生産的で、そこにはなんの価値もないだろうか。全ての会話がトランズアクショナルである必要はなく、寄り道が思わぬかたちで地図を広げていく。

やさしい言葉は冬の間のきびしい三月を暖める。(良言入耳三冬暖)

個人の一生には答えがないから、生きる希望を持てる。100点満点の人生なんていうものがあり、答え合わせができるとしてそんな人生は到底御免だろう。私たちの一生が、生産性というひとつの指標にリデュースされることはないから、安心して今日を楽しく生きられる。

IKEAエフェクト

社会の進むスピードは日を追うごとに加速している。人も情報も、めまぐるしく目の前を通りすぎていく。

トランズアクションが増えるのは経済学の観点では良いことだとされている。だが果たして、私たちの観点ではどうだろう。

人生を豊かにするのはいつの時代も、与えられるものではなく、自分で作ったものではないだろうか。

IKEAエフェクトという言葉がある。自分で組み立てた家具には一層の愛着が湧く。

朝起きてスマホになんの通知がなくたって気にすることはない。ネジひとつから始めたい。

誰かと生きるとき、ぐるぐると堂々巡りで解決しないことも出てくる。新しいオプションが次々にオススメとしてフィードされるが、簡単には流されない意地みたいなものがいま求められるかもしれない。説明書はイメージだけであまり親切ではないが、まずは勢いと勘で組み立てたい。その過程で学んでも良いだろうか。

あたたかい雛菊のローブで迎えてくれるホーラは残念ながら2023年にはいないが、私たちがその役割を果たすことはできる。

平日の仕事終わり、夕飯の後に少しずつ組み立てる。これは一人作業ではない。どこか建て付けが悪かったり留め具が欠けている。ただそれが代替不可能な、趣きのある人生を作るかもしれない。そんな仮説をもとに今日もネジをしめたい。

歯磨き粉に愛、なんでもワンクリックで手に入る時代に、自分にできることはなんだろうと考える。

住み良さと便利さの天秤

スウェーデンは非常に住み良い国だと思う。残業も少ないし、そのおかげで社会がより少ないストレス量でまわっている。さっき街の喫茶店でコーヒーを買ったが、カウンターで働く店員もなんだかゆったりと笑顔で接客をしている。

なにごともコインの表裏なので、この住み良さの裏側で、便利さが損なわれていることもたしか。24時間やっているコンビニはないし、深夜にサクッと入れる居酒屋もない。アマゾンも翌日配送されない。

ストックホルムってどんなところ?と人に聞かれると「割と安全だし綺麗で、悪くないところ。ただsleepyな街ですね」と回答している。

東京とストックホルム、自分や子供が生活する上で、どちらが理想的だろうか。これは個人の趣味やライフステージで意見の異なるところかもしれない。

社会的ストレスの代償として得られる便利さ!これから東京はどんな街になっていくのでしょう。

僕は外を歩いたり色んなお店に行ったりするのが好きなので、東京を懐かしく思うことも多い。週末は混んでいるので、平日の夜の茶沢通りをふらふら歩くのが好きでした。

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誰も気にしてないから

みなさま、年末年始はゆっくりできたでしょうか。早速フルスロットルの方もいれば、ゆっくり立ち上げてる方も、この週末は一息つけると良いのですが。

この時期に、新年の目標を考えることを恒例としている方も多いのではないかと思います。その上で必ずくる話題はキャリアでしょうか。

今日はそんなキャリアについて一緒に考えたい。

特に僕と同年代、30前後の人たちはキャリアの分岐点にいますね。30才と言えば、いまの会社に残るか、思い切って方向を変えてみるか。業界ごと変えるとなると、いまがラストチャンスなのではないか…?それに伴い、結婚は、家族は、転勤や駐在は、家や車の購入は…?そんなことがまとめて襲ってくるタイミングと思います。

僕もクヨクヨと考えることもありますが、誰も気にしてないから(笑)と自分を笑い飛ばすことで、勇気をもって先に進めると思っています。

手始めに、自分の会社の同期で、一番最初に会社を辞めた人、転職していった人のことを思い出してください。

その方がいま何をやっているかご存知でしょうか。あと、その人のことを思い出したのはいつが最後でしょうか?

僕の場合は青木くんという優秀な同期で、入社からほんの半年程度で転職していきました。転職先はまったく畑の異なる人材系の会社で、楽しそうに働いているという噂を転職直後に聞いて以来、何をしているのか知りません。

他人が自分のことを考えるために使うリソースってそんなもんなんだと思います。これをポジティブに捉えて、誰も気にしてないから(笑)と自分にリマインドしてあげましょう。

僕自身も長く働いた会社を去年辞めて、昨年からヨーロッパで生活しています。本当にお世話になった上司や先輩、同僚とはいまだに連絡を取っていて、たまにZoomをしたり、年末にもメールで生存確認のご挨拶をしたところです。今は楽しくこちらで生きていて、前職の方々が僕のことをどう思っているかと気にすることはありませんし、実際に彼らも自分の人生で忙しいことと思います。

少し寂しく聞こえるかもしれませんが、そういうものなんだと思います。僕らは社会的な動物ですから、他人がどう思っているかをとかく気にしがちです。ただ、僕らはもはや部族や集落に定住しているわけではないですから、人生には沢山の人の出入りがある。これを全てトラックできるようには出来ていないわけですね。良い意味で、目の前のことにみな必死。

人生100年時代、2度でも3度でもやり直せると思います。そんな中で足踏みしているのはもったいない。今年も自分を信じて飛んでみましょう。飛ぶときは下は見ずに。誰も気にしてないから(笑)

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こいつも気にしていない

藤井風がキレてるけど、何なん?

藤井風がインドのスピリチュアルリーダー「サティアサイババ」の教えを秘密裏に布教している、という批判に対して本人がインスタグラムで返答。そちらが話題になっています。まずは動画をご覧ください。

僕自身は無信教の人間で、ただ藤井風の音楽が好きであるというバイアスをまず宣言。HELP EVER HURT NEVERには、サンパウロでコロナがしんどかった時期に救われた思い出があります。

アーティストが信仰を明らかにすることは必須なのか?音楽レーベルの思惑、宗教的な物へのアレルギー、そして本人の発言の考察、という順番で考えます。

アーティストが信仰を明らかにすることは必須か?

アーティストはファンに自分の信心を開示しないと音楽活動を続けられないのでしょうか。

まず答えから、NOだと思っています。例えば異なる例を取って、同性愛者のアーティストがいたとして、彼らが公に性的趣向を宣言しないと音楽活動の権利を与えられないと言えば、それは馬鹿げた話。それと同じロジックで、信仰についても開示、非開示は本人の意思に任されるべきと考えます。

もちろん個人の性的趣向と信仰は異なる。一部では、これは正体を隠した勧誘活動であってファンへの裏切りだという批判も見られますが、新興宗教などの勧誘との大きな違いとして、出口に入信を設けていない点で少し趣きが異なるように思えます。

これには文化的な違いもあります。例えば僕がいまいるスウェーデンでは、万人の信仰の自由を保つため、どんな場面でも個人の信仰を問うことはご法度とされています。アーティストだからといって個人的な信仰の開示を強要することは許されていない。

音楽レーベルの考え

会社側がどう捉えていたかも面白いので載せておきます。下記の文章を読むと、会社側は本人の考えを最初から把握していたように読めます。

宗教的なものへのアレルギー

地下鉄サリンなどの記憶もまだ新しく、日本人は宗教的でスピリチュアルなものへのアレルギー反応が強いように感じます。(かくいう僕も割と拒否反応が強い方)

いまだに宗教色が色濃く残るインドの友人に、サティヤサイババについて聞いてみると下記のような反応。14億人の人口もあり、サティアサイババのようなスピリチュアルリーダーはインドに沢山おり、そのようなグールーにはマネーロンダリングなど色んな批判がつきもの。が、その反面、その教えに助けられている人も沢山いる。特にサティヤ自身はインドで好意的に捉えられているというコメントも。Babaというのは南アジアでは”wise old man”という意味を持ち、”教祖”みたいなものとは少しまた異なるニュアンス。なかなか明快にはジャッジしづらいもの。

本人の発言への考察

動画を観ると藤井風本人は、批判に対してかなり感情的に強く反応しているように見えます。これは恐らく、その製作やマーケティングのアプローチへの批判ではなく、個人批判、信仰心への批判と本人が捉えているからと思います。これは僕の周囲にもいるアーティスティックな人たちに共通した思考様式と思います。彼らは往々にして、誰かに向けて打算的に物を作っているわけでなく、自分の中にある思いを形にしないと生きていけないという思いで作品を作っています。そのような思いから、強い反応をしてしまったのではないかと想像。ファンに向けて歌っていること以上に、彼らは自分自身に向けて歌っている。

と同時に、もう少し上手く説明する手助けを会社は出来たんじゃないかなとも思います。今回の話は日本国内で盛り上がっているだけなので、例えば日本語でもう少し丁寧に説明をする、など。(僕の見た範囲では、いまのところ国外のファンが反応している例はほぼない)逆に、こういうエクスプローシブなアーティストと会社側が、いままでどうやって会話してきたのか、という部分に興味が移っています。

まとめ

これはかなりセンシティブで答えのない問題と思います。

例えば僕自身、冒頭に無信教とは書きましたが、確実に仏教や神道の影響を受けている。他国の友人に何か人生やキャリアに関するアドバイスを求められたとき、必ずこれを宣言してから話を始めるべきでしょうか。僕たちの思考はたくさんのものの集合で出来ていて、これを切り分けて整理することはなかなか骨が折れる。藤井風の歌詞はどこまでがサティヤの教えで、どこからが本人の考えでしょうか。インドの友人も同じようなことを言っていました。

自分で書いていて矛盾を感じる部分もあります。例えばデフテックが以前同じような問題に直面した時、まだ中学生だった自分は自然にその音楽から離れていったことを覚えています。自分自身がその団体が行っていた、執拗な勧誘活動やそのイメージに苦手意識を持っていたため。

ですので、いまの暫定的な考えは、

アーティスト自身は自由に創作に取り組むべき。ただ、その信心の元が明らかになったとき、ファンにもそれを支持するか否か自由に選ぶ権利がある。

信仰心に対する過剰なアレルギー反応は、異なる思想が増えることで日本国民としての和、ハーモニーが崩れるから、という思いが根底にあると思っています。ただ、僕らはみな良識のある大人として、ひとつひとつ精査して取捨選択できる能力、そして権利を持っていると思います。今後、日本が様々な国や文化の人材を受け入れられる国になっていく上で、ここら辺をみんなで議論して考えていくことは、僕らにとって有益なことなんじゃないかと思います。

足りない部分、ブラインドスポットがあるはずですので、ぜひぜひ気づいたことがあれば教えてください。

フランス便り 師走

師走の寒空の中、みなさまいかがお過ごしでしょうか。あっという間に今年も終わりですね。

この文章はシャルルドゴールのスターバックスから書いています。毎年、年の瀬は必ず日本に帰っていましたが、今年はこちらで過ごすこととなります。親の顔を見たり、久々に友人にも会いたかったので残念ですが、なんとか夏に一度帰れればと思っています。

さて、今年はみなさんにとってどんな一年だったでしょうか。私にとって、2022年は人生の変わるようなドラマチックな一年となりました。キャリアが大きく動いているというのもありますが、私生活の面で、フランスというヨーロッパのカルチャーセンターで過ごす経験が自分の価値観の根幹を揺さぶっているように感じています。他の物事と同様、その最中を生きているいま、簡単に言葉で纏めることは難しいですが、数年後ふりかえって大きな財産となることを予感しています。

最近は、世界の大きさを見くびらないことについて考えています。物が分かるようになってくると、これはきっとこうなるだろう、この人はきっとこういうだろうと経験則で思い、そこに結果を誘導するような行動や発言をする場面が多いかと思います。

例えば、キャリアについて深く悩んでいるが、この友人はきっと会社に残る方向で説得してくるから、会社で上手くやっていくためのアドバイスをもらうというアプローチで質問してみよう。

または、いま彼女の放った一言にひどく傷ついたが、きっと笑って誤魔化されるのでこちらも無かったことにして流そう、という具合に。

こういう小さなホワイトライは、自分や相手の体面を守るのに有効な一方で、真実に近づくことから自分を遠ざけるんじゃないかと感じています。人の知見、世界の広さや複雑さを過小評価している。

しんどい状況もたくさんありますが、できるだけ真実を語ること、予測できる結果を意識的に忘れて、正しいと思う行動をしてみること。瞬間的な手痛さはありますが、そうやって世界に身を委ねることが真実に近づく一歩かもしれない。そんなことを考えています。

みなさん世界のどこにいても、暖かくして年末年始をお過ごしください。南半球のそこのあなた以外!

北欧便り#3 なぜ死にそうでも会社を辞められなかったか

2013年に新卒で入社した後、4年間同じ部署で働きました。企画系の部署。当時の職場の状況や、それをどう受け止めたかの話。

一言、とりあえず上司がしんどい人でした。ドラえもんのジャイアンみたいに偉そうな人で、でも内心は小心者で素直にコミニケーションが出来ない(中学生の恋愛かよ)40代後半の管理職。変なコンプレックスがあり、西洋人が大嫌い。早稲田の野球部出身で、伝統的な部下への「かわいがり」を良しとするタイプ。このジャイアンが直属のグループ長で、この人仕事は出来たもんだから、その後室長になったり計4年間お付き合いすることとなる。

フェアに語りたいので書いておくと、僕自身も若くてとがっていたので、それが気に食わなかったんだろうというのは百歩譲って認めたい。社会人としての言葉選びや受け答えがぎこちなく、合格点でなかったかもしれない。

このジャイアンお得意のかわいがりがしんどかった。会議に資料を持っていっても、一瞥して気に食わないと内容は見てもらえない。こちらがプレゼン中も終始にやけていて、最後に「終わってるな」と抽象的に罵倒される。外国人が嫌いで、ビジネスパートナーの欧米人のことは「毛唐(けとう)」と差別的な呼び方をする。当時から僕自身がヨーロッパの女性と付き合っていたことも、ジャイアンにとって気に食わない材料の一つだった。週末はたびたびジャイアンの趣味のマラソンにつきあわされ、ハーフマラソンやフルマラソンにも何度も出場した。気づけば勝手にエントリーされている。飲み会の立て替えをしても絶対に自分からは払いにこないので、毎回僕の方からお伺いを立てる。もっと色々あるはずなんだが脳がデータを消去しているようで、ぱっと出てこない。

魚と組織は頭から腐るというが、ジャイアンのおかげで部内の雰囲気も最悪で、上が下をいじめる文化が蔓延していた。特に僕の担当の先輩のやり方がひどく、例えば日中のオフィスで急に「お前靴脱げよ」と言われ、仕方なく脱ぐと、当時の薄給で買ったノーブランドの革靴を職場のみんなの前で馬鹿にされた。次の日は時計でした。

かなりきわどい所まで行った時期もあり、家族にも頻繁に相談をして、法律に関わる人にも相談をした。ハラスメントとなる発言は、全て日時とともにノートに証拠を残した。産業医にも相談しましたが、それはなぜか上司に筒抜けでした。

家族や友人にも転職を勧められましたが、そこに踏み切ることはありませんでした。なぜか?いま振り返れば、単なるプライドだったと思います。

いまここから逃げたら負けを認めたことになる。絶対に見返す。そういう気持ちで時間をやり過ごしました。

大企業だったので4年でローテーションが来て部署異動することになりました。そこでは真逆の、本当に尊敬できる上司や先輩にたくさん出会い、仕事もすぐに認めてもらい、運も重なってすぐにブラジルに赴任させてもらえることになりました。例の革靴の先輩よりも早いタイミングでの海外出向となり、赴任前に顔を合わせた時には苦い顔をしていたこと、よく覚えています。ジャイアンは、僕が異動してほどなく畑違いの部署に飛ばされました。事情は知りませんが、何かがあったんだと察しています。

いま世界の色んな人間と自分を比べてみて、なるほど日本人はプライドの高い人たちだと思います。自尊心のためなら竹やりで戦車につっこんでく感じ。でもこれはどうしても変えられないものなので、それを客観的に見られていればOKぐらいで捉えています。

当時、会社を辞めて得られる心の安泰と、それによって失う自分の尊厳、これを天秤にかけていたと思います。尊厳なんて立派な言葉を使うのもちょっと可笑しいですが、当時のスキルも経験もない僕にとってはそれが唯一のよりどころでした。

セルフケアの大切さが広まって久しく、僕もその唱道者の一人です。あなたの人生より大きな仕事なんてないんだから、身の危険を感じたらさっさと辞めましょう。これが一番大切なメッセージ。いまタイムスリップして当時に戻れるとして、すぐに辞めるように自分を説得すると思います。それはそれなりに、また違った楽しい人生を歩んでいたと思うから。

ただ、逆の方向も応援したい。いまの持ち場で踏ん張っているあなたにも頑張れと伝えたい。当時の僕のように若く、不器用でも頑張っている人。今後自信を持って人生を生きていくには、自分のプライドを死ぬ気で守りにいく瞬間もあって良いんじゃないかと思います。特に大きな会社だと、ローテーションの先に素晴らしい出会いが待っている事もあるから。でも悩んだらちゃんと周りに相談して、ヤバそうな時にストップかけてくれる人やセーフティネットはちゃんと繋いでおきましょう。

いまは転職がより身近になり、仲介のエージェントも煽ってくるもんだから、当時とはまた違った悩みがあるかと思います。若者は知識も経験も少ないから、数年間は社会に搾取されがちですね。

学校で習ったやつ載せておきます。駄目なことを時代のせいにせず、強く進んでいきたいもんです。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子

北欧便り#2 一生迷子

最近はまた自分のキャリアについて悶々と悩んでいる。

社会人をやっていると、こういうライフスタイルがいいやとか、こういうキャリア設計で行こうかな、とか固まってくる部分もあるが、それがまた時間が経ったり、何かの出来事を機にうーんと悩んだり、いつも三歩進んで二歩下がるという具合。

元々、人類が満足を知らずに歩みを止めなかったからこそ今の世界があり、人として生まれた限り、何かを得れば何かに不満を持っての繰り返しなんだと理解しています。

山の頂上を目指して登ってみる。頂上まで登ったが束の間、景色を楽しむ暇もなく次に登りたい山が見える。そんな風にまずはどこか登ってみないと見えない次の景色がある。いま登った山を後ろ髪引かれながら下山して、一合目からやり直しということもままあり。そんなもんかと思います。

キャリア設計や人生設計という言葉は、人工的に作られた階段を思わせる少しミスリーディングなコンセプトだと思います。人生は登山のように、生きている大きな自然と対峙するような、山あり谷あり、時に遭難したり、時に美しい草木に出会ったり、そういう過程を楽しむ旅路であって、決して上を目指すだけのリニアな構造物ではない。

6月末、ブルターニュ地方にあるサンマロという海辺の街まで旅行に出かけました。ベジタリアンの友人もいたので、有機野菜を使った料理が評判のカフェに立ち寄りました。オーナーは恐らく50才前後のフランスの女性で、そこのオーナーであり、写真家であり、慈善活動家であり、料理好きのチャーミングなマダム。たまに店を閉めてふらりと世界旅行へ出て、その土地の写真を撮り、その写真をカフェに飾ったり売ったりしながら、楽しそうに生きている。お店の内装や、飾られた写真、メニューの内容から、全て手作りの、その女性自身をカフェにしたような素敵な空間。

誰に気兼ねすることもなく、楽しく自信をもって生きている。僕らの人生は誰への説明責任もないし、与えられた時間を使って好きなように生きてよい。そんなことをアボカドとサーモンのサラダを食べながら考えていました。

俺はサラリーマンだから、私は母親だから、と自分をカテゴリーの中に押し込める必要もない。僕らは勤め人でありながら、同時にミュージシャンであり、熱血サポーターであり、イケてる父親であり、見習いバリスタであり、週末サーファーであり、セミプロのキャンパーであり、ガチの料理通であり、引かれるほどのインドア派だっていいじゃない。

そんな風に新しい自分や景色を発見するためには下山することも必要で、Lost and found、一度迷子にならなきゃいけない時がある。行きつく先ではなく、この悩む過程こそが俺の人生であり醍醐味。誰のためでもなく、振り返ったときに自分が納得できる旅路ならそれでよい。一生迷子なのかもしれないと思っています。

愛しき迷子フレンズとサンマロの夜

北欧便り#1 Good fences make good neighbors. 個人間の距離

若手の頃にしんどかったことの一つに、職場でプライベートについて根掘り葉掘り聞かれて、なんか結果馬鹿にされるというのがあった。飲み会の場でもそうだが、毎日来る昼食の時間が地味に苦痛で、週末は誰と何をしたかとか、家族のことだとか、上司や先輩に一方的に情報提供を強いられて、最後には上から目線で有難い助言を頂くことと相成る。

これにはいくつか要因があったと思うのだが、ひとつ大きいのは圧倒的に話題がなかったこと。平日は夜中まで働いて帰ってメシを食って寝て、週末も疲れてぐったりしているので、みなさしたる話題がなく、結果お前なんか面白い話ないのみたいな流れになる。俺だってそんなフレッシュな話が毎日あるわけもなく、苦し紛れに身を削った話をすることとなる。若手はすべらない話が出来ないとダメみたいな空気もあり、ただそんな空気の中でウケる訳もないので、大体変な空気になる。吉本の芸人だって花開くのに何年もかかるのに、入社すぐのサラリーマンには無理だっての。若手が一方的に話をして先輩や上司が品評するという構図もしんどかった。相互のコミニケーションでなく、なんか面白いことやれよみたいな部活ノリの延長。

振り返れば、いらぬサービス精神というか、無駄に頑張って話題提供する必要なんてなかったし、もう少しうまくドッジして毎日をやり過ごすことも出来たかもしれないが、当時の不器用さを思い出すと難しかったとも思う。というか俺自身がオッサンになってきた今、右も左も分からない若者をそうやって悪意を持って追い込むようなやり口は下品だろ、との思いの方が強い。

たしかに、人を惹きつける話し方というのは社会人としてひとつ重要なスキルにはなるが、そんなもんは一所懸命仕事してればそのうち身につくから。

こちらに来て有難いのは、そういうしんどい機会にあまり遭遇しないこと。ひとつに、首を切られるのでマネジメントがハラスメントに敏感というハード面でのおさえ。ソフトな面では、みな自分の家族やら子供やら趣味やらで忙しく、他人のことを深く詮索しない空気。個人的な話題については時に水を向けられるような場面もあるが、軽く流すとそれ以上は追及してこない。俺は話すより聞いてる方が楽しいタイプなので、これぐらいの空気感が嬉しい。

Good fences make good neighbors.とは良く言ったもので、快適に生きていける他人との距離がある。日本語で一番近い表現は、親しき中にも礼儀あり?それは職場でも、家族でも、趣味の仲間内でもそうかもしれない。聞くことより、聞かないことにその人の品性は出る。

日本の会社員の意識も年々よくなってきているから、こういうしょうもないことで悩む若手がもうそう多くないことを願っている。

夏のストックホルム

日ノ本便り#3 人生100年時代

少し前に流行った、”The 100-Year Life”という本をオーディオブックで聴いている。

一言でいうと、医療技術や栄養の進歩で今でも毎年平均寿命は延びていて、100才まで生きる前提で資産形成や人生の計画を立てましょう、という本。

なかなか考えさせられる内容だが、言うは易しで、頭を悩ます問題だと思っている。

というのも、人生の中心には常に家族があり、生まれて家族に育てられ、成人すれば結婚し、次は自分が家族を持って養う側にまわり、子供が十分大きくなった頃には病気や老衰で死ぬ、という単純で短いサイクルが長きにわたって人類を育んできた中で、ここ数十年で急に核家族や高齢化が進み、そんな割と新しいコンセプトの中で、ボーナスタイムとも言えるその時間の有効な使い方を僕たちはまだ見つけられていない。

人生を形成するものには大きく、①家族や友人など人との繋がり、②趣味、③仕事、の3つがある。自営業なんかだと、②と③が重なる人もいるかもしれない。

③仕事、には中長期的には多くを望まない方が良いかもしれない。多くの人が、なにかしらの企業体に勤めているという前提で話すと、組織の一番上まで上り詰める人は一握りで、極端な話、社長まで成り上がる人間以外は、どこかで挫折して、仕事というものに折り合いをつけざるを得ないタイミングが必ず来る。その意味で、仕事一択に人生をベットするのは確率的にかなり危ないゲーム進行と考えられる。

その意味でも、②趣味、は必ず充実させる必要が出てくる。若いうちから色んな事に手を出しておいて、趣味を転がしていく習慣をつけて行かないと、急に趣味を見つける、という事は割に難しかったりする。

①家族と友人など人との繋がり、については、さらに「家族」と「友人」という要素に分解したい。家族については、配偶者や子供を一番の軸として扱いながらも、あまりに大きく依存してはいけない、とバランスさせることの非常に難しい、繊細な物だと考えている。子供は成人すれば去ってしまうし、配偶者にはいつ何があるか分からない。結局、最悪の場合にひとりでなんとかやっていける人生を設計しておく必要があると思う。もちろん地震の被害には合いたくないが、毎年防災訓練をして、非常食は備蓄しておかなければならない、というような具合に。友人については、こちらも難しくて、ライフステージやロケーションがみな流動的なので、繋いでおくことがどんどん難しくなっていく。

詰まる所、足下で一番確実なのは②の趣味ぐらいになってくるわけだが、僕は①のあり方について、今後もっと新しい解が出てくるんじゃないかと思っている。

いわゆる高齢者向けのマッチングアプリみたいなもの。

ロマンチックな意味でのマッチングもそうだが、もっとカジュアルに、②の趣味なんかをベースに、①を強化できるようなサービスが、デジタルネイティブな世代が年を取るごとに充実してくるんじゃないかと思っている。例えば、60代以上向けの、ティンダーとmixiを足したようなサービス。100%理想の相手に出会える!みたいなみっともない立て付けだとシニアは寄り付かないので、もう少しクラッシーな印象のサービス。白髪といわれると嫌だが、ロマンスグレーというとなんか受け入れてしまう、そういう塩梅で。

僕の静岡の爺さんはゲートボールが趣味で、暇さえあれば近所の人たちとゲートボールをしていて、全国大会にも出るような地元では有名な爺さんだったのだが、亡くなるまで実に友達が多かった。

人生の後半に差し掛かった人間たちが集まって楽しむ、カラオケサークル、サイクリングサークル、ハイキングサークル、などなど。人類の努力によって勝ち得たボーナスタイムを、一緒に元気に過ごせるように繋いであげる、そんなサービスがあっても楽しいんじゃないか。

独居老人、熟年離婚、老々介護。自分に来るかもしれない、鬱々とした未来を考えた時に、少しでも明るい解決策を提示できる、そんなビジネスを考えたりする。

日ノ本便り#2 オッサンを自覚して生きる事

今週少しショックを受け、同時に学びとなった出来事。

僕がブラジルで取り組んでいた業務内容が皆にとって面白いと思うので、是非短いパワポを使って、いまの日本の職場のメンバーに紹介をして欲しい、と上司から依頼を受け、写真なども混ぜながら極力分かり易く15枚程度のパワポをこさえました。

今週、その上司と、自分のグループのメンバー7人ほどを集めて、そのパワポを使って、まずはブラジルビジネスの概況、自分の所属した組織の立て付け、僕が取り組んだプロジェクト、そこでの学び、番外編でサンパウロの文化や食事の紹介、などなどにつきお話をして、15分程度の質疑応答を実施しました。

上司からも好評で、参加していた先輩や、海外赴任を控えた年の近い後輩からもいくつか良い質問を貰い、短いながらも実りある議論になり、今後のキャリアを考える上で他の方々にも良い情報交換になったと思いながら一日を終えました。

うちの職場では、毎日その日一日に行った業務や、参加した打ち合わせを書き出して、自分の上司とグループメンバーに一本メールで報告をしてから退勤をする、というルールがあります。

そのブラジルの話をした日、ある若手業務職の女性の夕方の業務報告メールの中に、僕のその情報交換会のことを指して、「〇〇さん(僕の名前)より、ブラジル事業に関するご講話」と記載があり、大変驚いた。講話て。校長先生のご講話じゃないんだから。

講話って、体育館で前ならえで並んだ後に、休めの恰好のまま5分ぐらい聞かされる、校長先生のつまらない有難いお話のイメージではないでしょうか。

その女性社員は、20代前半で、全く中南米事業や僕が関わっていた業務エリアに知見の無い方だったので、恐らく本当に遠い所の話過ぎて、なかなか話が頭に入ってこなかったのではと、ひとり反省しました。

100人中100人に刺さるプレゼンやストーリーを作る、という事は難しくて、話を咀嚼しやすいように崩しすぎると学びの少ないシャビシャビなカルピスのような内容になってしまうし、一方で尖らせすぎると一部の人にしか刺さらない独りよがりの内容になってしまう。

パワポや、面白いストーリーを作る上では、いかに”Relatable”な物に出来るか、いかに共感を呼べるか、という点がひとつ重要になるわけですが、限られた時間の中で、大勢にリーチしながらも、学びがあり、最後には共感を得られる、聞いて良かったと思える話をお届け出来るか、これは大変に難しくて、ただ人を巻き込んで物事を進めていく上では重要なスキルになるかと思います。再生回数の多いTed Talkなんかのすごさはここにあります。

同時に、自分がオッサンになっている、という事も感じています。新入社員の頃は酒の席で上司のつまらない講釈を延々と聞かされて辟易とした事も多かったですが、恐らくアレは、話を聞く側の若者が飽きているという事に上司は気づいていなかったんだな、という事をいま実感として、この「ご講話」の件を通して強く実感しています。「ご講話」などと思われているともつゆ知らず、物知り顔で話をしていた自分に嫌気がさします。

これはつまる所、視点の違い、という事で説明が出来ると思います。例えば酒の席の例でいえば、上司は自分が経験した事を適当な形に切り出して数分の有難いお話に仕上げる訳ですが、その話に至る前提の部分を当たり前の所与の部分として捉えていて、若者側は、なぜそのような切り取り方や見方が出来るのか、なぜそう考えるに至ったのか、その前提の部分を理解していないわけですから、自然とその話の重要さに気づけない、共感できない。視点がズレたまま、かつ酔っぱらった状態で話が続いているので、若い人間はつまらないと思い、上司は響かないな、と思いながら不幸な平行線が続きます。

この視点の差は、若者側が経験を得てある程度キャッチアップしてくるタイミングまでは埋まりませんので、強引な言い方ですが、若者には有難い話をしてもしょうがない、というのが僕の個人的な意見で、オッサンはあくまで受け身で、何か聞かれた時に丁寧に教えてあげるだけで良く、プロアクティブに有難いお話をする必要はないと思っています。向こうが聞いてきた、という事は視点が合ってきているということですから、そのタイミングで適切な話を出してあげれば良いわけです。今回のブラジルの件は上司に頼まれて話をしたのでしょうがない部分はありましたが、気を付けなければいけないと思った出来事でした。

あと一つ、ご講話の話から少し飛躍してはいますが、オッサンは若者を教育するとか言ってる暇があったら自分の事に集中して、楽しく人生を生きる、という姿勢が必要なのだと思っています。タレントの高田純次が、『年寄りにありがちな「説教」「昔話」「自慢話」をしないようにしている、この3つを無くしてるから、俺はエロ話しかできない』という事を言っていますが、この言葉には真理があると思います。老若男女、誰とでも楽しく話を出来るようにあるには、いつも新しいアイデアに門戸を開き、新しい事にチャレンジしていなきゃいけないのだと思います。そうでないと、結局、昔の話や他人の話になってしまう。いつでも自分の話、未来の話を出来るオッサンでありたいですね。

日ノ本便り#1帰国

昨年の12月に帰国しています。

うちのブラジル事業がコロナ禍に伴い深刻な経営赤字に陥ったことで、若手社員は全員帰国のお達しがあり、12月の中旬に現地を離れました。帰国後は2週間の自主隔離を経て、年始から再び日本で働いています。

サンパウロでは沢山のかけがえのない友達ができ、言葉を学び、徐々にブラジルという国に愛着を持ち始めたタイミングでの帰国となった為、悔しい部分はあったものの、人生そんなものみたいな部分もあるので、置かれた場所で咲くしかないかなと思っています。

いま個人的に将来に向けて色々仕込んでいる部分はあるので、またその部分は追って。

こちらのブログ、根強いファンの方がいらっしゃるようで、長い事投稿が無くても、毎日誰かしらがチェックしにきてくれているようです。(こちら側にはそれがどなたかは勿論分かりません)ありがとうございます。

こちらに帰ってからは、実家の家族と過ごす時間が増え、自然と家族について考えることが多くなります。

みなさんは、年老いた両親の面倒を見るのは、誰の責任だと思うでしょうか。恐らく大きな派閥としては、①自分のことは自分で面倒をみるべき、②子供が親の面倒を見るべき、の2つに分かれ、①が現代風の考え方で、②が伝統的な考え方、と言って差し支えないかと思います。

僕自身は長い事、①を支持していて、その為に成人は一所懸命働き、貯蓄を作るんだろう、と考えていました。特に親の面倒を見るということは、その性質上地理的な制約を子供に課す事になりますから、子供の人生の可能性を狭める事にもなります。この考え方は、西洋的な考え方とも言えるかと思います。東欧や南欧には、割と②に近い考え方をする方々もいることに最近気づきましたが、EU圏で言えば、少なく見積もっても過半数は①を支持するでしょう。

只、最近は②に傾き始めている自分に気づく瞬間があります。両親が確実に年を取っている事を実感する時、特にそのことを感じます。明らかに白髪の量が増えていると気づいたとき。昔はなかったようなささいな物忘れをしていたとき。スーパーで牛乳を買って帰るのが重くて億劫だと言ったとき。そんな時に、ああ傍にいてやれたらなあ、と感じざるを得ない。

自分自身が年を取って、人や物の無常や、盛者必衰、を肌身を持って感じられるようになっているから、という事も大いにあるでしょう。僕が60を超えて、テストステロンもセロトニンも今の半分も脳内に残っていなくて、足腰も弱ったときに、同じような元気と論理的一貫性を持って、「俺は勝手に生きるからお前は好きに生きろ」と子供に言える確証はあるでしょうか。そして、自分が仮に言えたとして、いま目の前で弱りつつある両親にそう言って突き放す事は僕にとって正しい事でしょうか。

世界に打って出て生きてやるという気持ちと、最も大切な家族を近くで守りたいという気持ち、この二つを共生させることが難しい事が、国際的に生きるという事の大きな難しさのひとつで、どうしたら上手くバランスを取れるだろうか、そんなことを最近は一人で考えています。

ちなみにタイトルの「日ノ本(ひのもと)」というのは言わずもがな、日本の事ですが、僕が最近ハマっているNHKのドラマ、「青天を衝け」で良く出てくる言葉です。

外国の脅威にさらされる江戸末期の日ノ本を守ろうと奔走した、日本資本主義の父・渋沢栄一を幼少期から描いたシリーズです。まだ始まって数話ですので、皆さんもぜひ!

商いの本質は三方ヨシである事を教えてくれる渋沢栄一

ブラジル便り#29 総合格闘技

ブラジルでの総合格闘技の人気、UFC、BJJ(ブラジリアン柔術)、コナーマクレガーなどについて話します。

UFCのスター、コナーマクレガー

伝統空手を強く感じさせるファイトスタイルの Stephen “Wonderboy” Thompson.

総合格闘技でのブラジリアン柔術の良い活用事例。2:35から、綺麗なテイクダウンからのトーホールド。