藤井風がインドのスピリチュアルリーダー「サティアサイババ」の教えを秘密裏に布教している、という批判に対して本人がインスタグラムで返答。そちらが話題になっています。まずは動画をご覧ください。
僕自身は無信教の人間で、ただ藤井風の音楽が好きであるというバイアスをまず宣言。HELP EVER HURT NEVERには、サンパウロでコロナがしんどかった時期に救われた思い出があります。
アーティストが信仰を明らかにすることは必須なのか?音楽レーベルの思惑、宗教的な物へのアレルギー、そして本人の発言の考察、という順番で考えます。
アーティストが信仰を明らかにすることは必須か?
アーティストはファンに自分の信心を開示しないと音楽活動を続けられないのでしょうか。
まず答えから、NOだと思っています。例えば異なる例を取って、同性愛者のアーティストがいたとして、彼らが公に性的趣向を宣言しないと音楽活動の権利を与えられないと言えば、それは馬鹿げた話。それと同じロジックで、信仰についても開示、非開示は本人の意思に任されるべきと考えます。
もちろん個人の性的趣向と信仰は異なる。一部では、これは正体を隠した勧誘活動であってファンへの裏切りだという批判も見られますが、新興宗教などの勧誘との大きな違いとして、出口に入信を設けていない点で少し趣きが異なるように思えます。
これには文化的な違いもあります。例えば僕がいまいるスウェーデンでは、万人の信仰の自由を保つため、どんな場面でも個人の信仰を問うことはご法度とされています。アーティストだからといって個人的な信仰の開示を強要することは許されていない。
音楽レーベルの考え
会社側がどう捉えていたかも面白いので載せておきます。下記の文章を読むと、会社側は本人の考えを最初から把握していたように読めます。
宗教的なものへのアレルギー
地下鉄サリンなどの記憶もまだ新しく、日本人は宗教的でスピリチュアルなものへのアレルギー反応が強いように感じます。(かくいう僕も割と拒否反応が強い方)
いまだに宗教色が色濃く残るインドの友人に、サティヤサイババについて聞いてみると下記のような反応。14億人の人口もあり、サティアサイババのようなスピリチュアルリーダーはインドに沢山おり、そのようなグールーにはマネーロンダリングなど色んな批判がつきもの。が、その反面、その教えに助けられている人も沢山いる。特にサティヤ自身はインドで好意的に捉えられているというコメントも。Babaというのは南アジアでは”wise old man”という意味を持ち、”教祖”みたいなものとは少しまた異なるニュアンス。なかなか明快にはジャッジしづらいもの。
本人の発言への考察
動画を観ると藤井風本人は、批判に対してかなり感情的に強く反応しているように見えます。これは恐らく、その製作やマーケティングのアプローチへの批判ではなく、個人批判、信仰心への批判と本人が捉えているからと思います。これは僕の周囲にもいるアーティスティックな人たちに共通した思考様式と思います。彼らは往々にして、誰かに向けて打算的に物を作っているわけでなく、自分の中にある思いを形にしないと生きていけないという思いで作品を作っています。そのような思いから、強い反応をしてしまったのではないかと想像。ファンに向けて歌っていること以上に、彼らは自分自身に向けて歌っている。
と同時に、もう少し上手く説明する手助けを会社は出来たんじゃないかなとも思います。今回の話は日本国内で盛り上がっているだけなので、例えば日本語でもう少し丁寧に説明をする、など。(僕の見た範囲では、いまのところ国外のファンが反応している例はほぼない)逆に、こういうエクスプローシブなアーティストと会社側が、いままでどうやって会話してきたのか、という部分に興味が移っています。
まとめ
これはかなりセンシティブで答えのない問題と思います。
例えば僕自身、冒頭に無信教とは書きましたが、確実に仏教や神道の影響を受けている。他国の友人に何か人生やキャリアに関するアドバイスを求められたとき、必ずこれを宣言してから話を始めるべきでしょうか。僕たちの思考はたくさんのものの集合で出来ていて、これを切り分けて整理することはなかなか骨が折れる。藤井風の歌詞はどこまでがサティヤの教えで、どこからが本人の考えでしょうか。インドの友人も同じようなことを言っていました。
自分で書いていて矛盾を感じる部分もあります。例えばデフテックが以前同じような問題に直面した時、まだ中学生だった自分は自然にその音楽から離れていったことを覚えています。自分自身がその団体が行っていた、執拗な勧誘活動やそのイメージに苦手意識を持っていたため。
ですので、いまの暫定的な考えは、
アーティスト自身は自由に創作に取り組むべき。ただ、その信心の元が明らかになったとき、ファンにもそれを支持するか否か自由に選ぶ権利がある。
信仰心に対する過剰なアレルギー反応は、異なる思想が増えることで日本国民としての和、ハーモニーが崩れるから、という思いが根底にあると思っています。ただ、僕らはみな良識のある大人として、ひとつひとつ精査して取捨選択できる能力、そして権利を持っていると思います。今後、日本が様々な国や文化の人材を受け入れられる国になっていく上で、ここら辺をみんなで議論して考えていくことは、僕らにとって有益なことなんじゃないかと思います。
足りない部分、ブラインドスポットがあるはずですので、ぜひぜひ気づいたことがあれば教えてください。