ブラジル男女のぶりぶりの恋愛事情

僕はマーケットインで仕事をするタイプの
デキるビジネスパースンなので、
市場調査の為、よく飲みに出かける。


先日、面白いことがあったので、記しておく。


サンパウロは、ビラ・マダレーナ深夜1時。
(東京でいう、六本木としておこう)

友人と一緒に、
あるバーでビールを飲んでいると、美しい一組の男女。

楽しそうにキスしたり、乳繰り合っている。

男はバッファローマンのような、どデカい悪魔超人。
女はちょっと奥手そうだが、スラっとした金髪ギャル。
周りには、友人らしき男も何人かいる。


もう2本ぐらい、ハイネケンのボトルが空いた頃、
ふと見ると、バッファローマンが他の女と踊っている。

あれ、さっきの彼女はトイレかな、と思えば、
元の場所でカジュアルに一人、揺れている。

ん?と思いながら見ていると、
バッファロー五郎は、次の女子、また次の女子、
と、とっかえひっかえ、他の女と話している。

隣にいるブラジルのツレに聞くと、
当地では割とある現象らしい。

恐らく、バッファロー五郎とギャルは
あの晩、あのバーで初めて会い、
五郎は、一旦ギャルを保留にしながら、
他の女子を品定めしている、ということのようだ。


これはかなりしんどい。

軽く心のテリーマンが行きそうになったが、
筋肉量が足りないのでやめておいた。

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どうしてそうなるか。

若い男同士の間で、マッチョなブラザーフッドがあり、
飲み屋などで、早々に一人の女子にコミットすると、
「マリード(旦那さん)」という蔑称で、
男のツレに馬鹿にされることがあるそうだ。

女子側にも、
優しくて金持ちの、強い男と結婚して、
私を幸せにして欲しい、と考える文化があるようで、
男のゲスなやり口もある程度見過ごしながら、
自分に帰ってくることを信じ、健気に待つ。
(そうでない女性も勿論いるでしょう)


娘が出来たら、
きっとサンパウロには留学させないと誓い、
その晩は帰路についた。

(冗談、良い奴もいます)


ここで少し話は飛ぶが、
自分の外に評価の物差しがある限り、
人は幸せになれないだろう。


例えば。

あのイケメンを落とせたら、私は幸せになれる。

モーメンタリーには真、かもしれないが、
その男子と濃厚接触して気持ちが満たされるのは一瞬。

男の、私に対する、評価に幸せが依存している。
これはサステナブルな幸せとは言えないだろう。

(勿論、生涯を共にしたいパートナーに出会う、
という事には大きな価値があり、別の話です)


あの高級車を買えたら、俺は幸せになれる。

これもまた、車体価格や、車雑誌の評価、
他人からの称賛や羨望の眼差し、に幸せが依存する。

数ヶ月もすれば、効用も漸減する。
持続可能なHappinessとは言えないだろう。


これらは、言い換えれば、
自らの価値基準の設定を他人や社会に委ねている、
ということだろう。

これをやると、
内在する真の基準と齟齬が発生し、虚無感が生まれる。

バスケやそのルールが好きなのに、皆がいるからと、
自らサッカーコートに飛び込んで行っている。
プレイしながらどこか満たされないのは当然だろう。


また、対象を外部に依存する限り、
自分で上手く幸せの進捗をコントロール出来ない。

イケメンの例で言えば、

誰かが自分を幸せにして欲しい(他人→自分)、
ということは、本来個人のコントロールの外で、

あるべきは、
私が誰かを幸せにしたいという(自分→他人)、
自分が変えることの出来る、愛情表現の活動だけだ。


車の例で言えば、

年収は、約800万円に達した時点で、
それ以上人生の幸せを増やさない、
という有名なプリストンのスタディがある。
金で買える幸せは800万円分が上限だ。

800万の中でフォレスターを買い、
あとは家族、友人、趣味、
別のルートで幸せを増やすことに頭を使うべきだ。

そう思いながら、なぜ、馬車馬のように働き、
ランボルギーニやタワマンが欲しくなるか。

それは、資本主義の小さいシステムの中で、
資本家が考えた彼らに都合のよい物差しや枠組みを、
僕らが無意識に採用しているからだろう。

資本主義は、国家や社会を運営する最適の仕組みであり、
僕らの心や幸せを運営する最適の仕組みではない。
(また別で詳しく書く)

社会は僕らに、常に新しいマンションを、
新型のスポーツカーを用意してくれる。
進捗を管理するのは企業・メーカーで、
僕らは選んでいるようで選ばされているだけだ。


趣味のアコースティックギターで弾ける曲の数、
地元のサッカーチームの試合に子供と行けた回数、
ベンチプレスで上げられたバーベルの重さ、
子供を預けて奥さんと観に行った映画の本数、
両親や恋人、周りの人間への日々の接し方を見直し、
業務連絡でない、意味のある会話を持てた回数。

例えばこれらは、常に自分の中に物差しがあり、
進捗を把握しながら日々伸ばしていける物事の例だ。
時に、必ずしも定量的ではないが、それでも良い。
これらは着実に日々僕らを幸せにするだろう。


顔の良い男の攻略も、車購入も、
長期的なHappinessより、Pleasureに近い。

Pleasureは一過性のもの、刹那的な爆発だ。

Happinessは、線香花火のように、
ボーッと常に心を温め続ける地味なものだろう。
そして常に、自分の内面だけに存在するものだろう。


僕らは先ず、人生を真に温める価値や物差しについて、
個々人の中でウンウン唸りながら考えなきゃいけない。

そしてそれが見えたら、
その物差しを社会に折られぬよう守らなきゃいけない。


皆が同じ定規を持って、
ヘラヘラと踊る社会は虚しいだろう。

不安の中で、強く自分の価値基準を設定してみる勇気、
そして時に、同じような尺度を採用する人間に出会い、
お互いにそれを守りながら、伸ばしていく楽しさ。

そういう目に見えない地道な活動が、
僕の人生に、地味だが、本物の幸せを運び続ける。



(年収と効用に関するプリストンのスタディ)
http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,2019628,00.html
深夜のビラ・マダレーナ

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