「でも」の先を見つける



先日観た映画、バニラスカイに、下記のようなセリフがあった。

"THE SWEET IS NEVER AS SWEET WITHOUT THE SOUR."
"人生に酸味があるこそ、甘みを楽しむことが出来る。"


月並みな言葉ではあるが、僕は考えてしまった。


というのも、周りを見渡してみると、
甘みの総量に対して、酸味が勝りすぎる人生が
多すぎるのではないかと思ったからだ。

ほんのたまに甘さを味わえるとして、
それ以外は辛酸をなめ続ける人生、
そんなものに意味があるか?
逆なら良いとして。



以前、親しい友人と話したことがある。
いま目の前にボタンがあって、
そのボタンを押す事で、何の痛みも、
何の社会的な影響もなく、
この世からオサラバ出来るとして、
そのボタンを押すか。

この場合、家族や、
近しい友人の記憶にも残らない。
彼らが悲しみの涙に暮れる事も、
何か経済的に困窮する事もない事とする。

どうだろうか。



ロジカルに考え始めると、
楽しい事や良かった事より、
辛い事や面倒な事の方が多くないだろうか。

その前提を持ってして、手放しに、
人生を礼賛する事は出来るだろうか。

頭で考え始めると、
人生を肯定する事は難しい。

その意味で、
人は宗教に走り、
愛を唄うのかもしれない。

論理を超えた何かを見つけたい。

只、宗教は万人にハマる物ではないし、
個人間の愛の授受もまた、無常であり無情だ。



ひとつだけ、
個人的に心当たりがあるのは、
子供の存在かもしれない。

子供は何もかもを超越して、
世界に希望の光を照らす、稀有な存在だ。

では、
子供のいない家庭や、
子供の独立した後、
そこに生を肯定する何かはあるか。

分からない。

医療の進歩のおかげで、
僕らの人生が長くなり過ぎているだけかもしれない。




ここまでお読み頂いて、
いやでも、と言いたい方もいると思う。

でも、の後には、
それぞれ違う物事が続く。

それは、論理的には説明できない、そして、
必ずしも永続性のあるものではないかもしれない。

でも、

ライブであの人のあの曲を聴きたい、
近い内にフィレンツェに行ってみたい、
あの人ともう一回だけディナーに行きたい、
新しい靴を履いて街へ出かけたい。

個々人の中にいま存在する
「でも」の後に来るものを大切にする事が肝要だ。


その意味で少し飛ぶと、
いつもオープンエンデッドに、
物事を肯定し続ける姿勢が必要になる。

僕の好きな小袋成彬は、
Gaiaという楽曲の中で、
「答えはいつもYESだ」
と言った。

全てにNOを返し続ける限り、
でも、の後に来る物を見つける事は難しい。

ロジカルに、
生を肯定するものを見つける事は難しいから。

YESを繰り返しながら、
でも、のその先を見つけたい。

その事が、ボタンを遠ざけ続ける。

晴れの日のサンパウロ

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