生産性の罠

効率よく、コスパよく、賢く生きることへのプレッシャーの強い世の中だと思う。

GDPという概念がある。グロス・ドメスティック・プロダクト、国内総生産とも呼ばれる。一定期間内にある国で生産された付加価値の合計で、社会や企業体はこの付加価値をいかに上げるかを競い、個人はその生産の重要な基盤として活動している。

このGDPで日本は世界第三位!そして世界を席巻した効率改善の思想、トヨタ生産方式を産んだ国でもある。一位と二位を張るアメリカや中国の資源、そして人的資本と比べた時、1億人と少しで対等に張り合う日本は、効率を語らせたら実質一位じゃないだろうか。


さて個人の一生というのは、この生産性の観点で語れるか。私たちのかぎりある体温は生産を動かすための熱でしかないだろうか。

コーヒーの湯が沸くのを眺めている。ペンを取って思ったことを書き出してみる。見返りを求めず人に優しくある。

まだすこし寒いが海辺まで足を伸ばす。さしたる用事はないが誰かに電話してみる。話すことよりも多く聞くようにする。

いつもと違う道で家に帰る。このさきどうなるか分からない相手に本気で向き合ってみる。自分でわからないことは素直に聞く。

こういうひとつひとつは非生産的で、そこにはなんの価値もないだろうか。全ての会話がトランズアクショナルである必要はなく、寄り道が思わぬかたちで地図を広げていく。

やさしい言葉は冬の間のきびしい三月を暖める。(良言入耳三冬暖)

個人の一生には答えがないから、生きる希望を持てる。100点満点の人生なんていうものがあり、答え合わせができるとしてそんな人生は到底御免だろう。私たちの一生が、生産性というひとつの指標にリデュースされることはないから、安心して今日を楽しく生きられる。

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